「私の為に利を図り、之が為に祈りをなす者世に多し。此れ其私慾に向って祈禱する者。神と相関するなし。雨と光りを平等に賜ふの神は、一私人をも天地より斥けられざるも、自ら道に反して其欲を求むる者を如何せん。」
新井奥邃、『聖言』、173
「自分のために利益をはかり、このために祈りをする者が世の中には多い。このようにその私欲にむかって祈禱をする者は、神と相互に関係することはない。雨と太陽を平等に与えてくださる神は、一人の人をも天と地から排斥されることはないが、自分自身から道に反してその欲を求める者を残念ながらどうすることもできない。」
「隣人のものを一切欲してはならない」(出エジプト20章17節、十戒の10番目、新共同訳)。
貪欲は罪です。創世記3章にて罪を犯した人類は貪欲の罪から逃れることができません。向上心や意欲といった一見良いものに見える欲の中にも、どす黒く渦巻く罪が存在しています。あるいは全く欲望を抱くことのない中に生活していると言いつつも、国家の貪欲、経済の貪欲の中にすでに組み込まれているお互いであり、それから無関係で生きている者は一人もいません。みなこの罪の奴隷となっているのです。
自己中心の人間は、つねに自分が大事にされているか、ということを貪欲にはかりにかけながら生きています。自分のことは棚に上げて、少しでも自分が大事にされていないと感じると途端に攻撃をしたり、否定したりするのです。
宗教においてもこの貪欲の罪は渦巻いています。さまざまなご利益を餌に人集めをしている宗教があります。またそれに乗っかって、自分の利益を求めることに終始している宗教マニアがいます。それらはおおよそ聖書の信仰とは相いれないものです。
貪欲を戒めることばを聞き、自らが罪人であることを自覚しましょう。そうして神さまの助けをいただきながら、自らの中に巣くう貪欲と闘いましょう。そこに神さまに喜ばれる聖い道が開かれます。
神さまは、すべてのものを救おうとしておられます。しかし人間が自己中心の罪の中にうずくまり続けるならば、どうすることができるのでしょうか。
〔聖書の個所〕
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
(マタイ5章45節)
だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。
(マタイ12章31節)
それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない。」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。
(ローマ7章7節)
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
(ガラテヤ5章24節)
あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者や、むさぼる者・・これが偶像礼拝者です。・・こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。
(エペソ5章5節)