カテゴリー: 新井奥邃

  • 「人は当に自然を通じて超自然に至るべし。然れども是れ自我の要求を以て至られず。必ず法に由りて道を履むに在り。其道は謙にして我を失ふに存す。其失ふとは、基督に於て之を失ふなり。若し基督に於て我を失ふに非ずんば、累せらるる事なからんと欲すと雖も、之を長(とこし)へに期すべからず。焉(いずく)んぞ向上して超達するを得ん。」

    「人は当に自然を通じて超自然に至るべし。然れども是れ自我の要求を以て至られず。必ず法に由りて道を履むに在り。其道は謙にして我を失ふに存す。其失ふとは、基督に於て之を失ふなり。若し基督に於て我を失ふに非ずんば、累せらるる事なからんと欲すと雖も、之を長(とこし)へに期すべからず。焉(いずく)んぞ向上して超達するを得ん。」

    新井奥邃、『聖言』、188

    「人は目指すところ、自然を通して超自然に到達するべきである。そうではあるがこれは自我の願望によっては到達することができない。かならず真理によってキリスト信仰への道を歩んでいくことによって到達する。その道は謙遜であって、自我を失うことにある。この失うということは、キリストにおいて失うということである。もしキリストにおいて自我を失うことでないならば、わずらわされることがないことを願っていても、これを長くに渡って期待すべきではない。どうして向上して超自然に到達することができるであろうか。」

     神さまは目に見えないお方です。その神さまにお出会いすることは、ある意味、自然なことではありません。永遠の命に生きるということも自然なことではありません。そのような自然でないこと、超自然のことは、我力によって生まれることではありません。聖書は、真理の道はただおひとり、イエスさまだけであると語ります。そのイエスさまによって、即ちイエスさまのお言葉である聖書の言葉によって、その真理によって、超自然に到達することができるのです。
     しかしこのような道にも自己中心と高慢が潜んでいます。自分を失わないならば何も実現することはありません。常に自分を失うこと。それが大切です。
     しかし自分を失うということは恐ろしいことです。自分の何かをすべて自分の手の中から放してしまうこと。人間はこのようなことをすることができません。しかしイエスさまにあっては、自分の手の中からすべてのことを手放すことができます。自分をわけのわからないところに捨ててしまうのではなく、自分を十字架の愛で愛してくださるお方の御手の中に委ねるのです。
     そうしてキリストにあって自分自身を失うならば、永遠と深く結びついたいのちに生きることができるのです。

    〔聖書の個所〕

    私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
    (ガラテヤ2章20節)