「世に或は永生を言う者あるも、大抵皆影響の想像に過ぎず。其実体を認むる者甚だ少なし。百錬の修徳又百順の奉事なくして、容易に永遠に入るを得んと思ふは、真思を去るの遠き之より甚しきはなし。或は箇々の定体を認むと雖も、父母たる真人に於て一統せらるる所を知らざれば、終に天国の情状に達する能わず。」
新井奥邃、『聖言』、193
「世には時折永遠の命について語る者がいるが、たいてい誰かからの影響による想像に過ぎない。その実態を認める者は非常に少ない。金属を何度も練って純度を高めるような多くの修徳や、または素直に従う心をもっての仕えることなくして、簡単に永遠に入ることを体得しようと思う者は、真実な思いから遠く離れてしまうことにおいて、これよりも大きなことはない(真実な思いから遠く離れている)。あるいは個々の『定体』を認めるといえども、『父母たる真人』においてひとつにせられることを知らないならば、最終的に天国の情状に到達することができない。」
永遠の命とは、死後にも尽きることのない「いのち」という意味と共に、今この時に尽きることのない「いのち」に生きるということを意味しています。「使命」ということばは、命を使うと書きますが、愛に生きようとすると命をすり減らす経験をしますが、この「永遠の命」に生きる者は、すり減ることなく、かえって生ける水、泉のようにさらなるいのちが湧き上がってくるのです。つまりキリストにあって愛に生きる者は、より生き生きといのちに溢れて生きることができるということです。
そのためには、修練と従順が必要です。これなくして永遠の命に生きることはできません。もちろん信じることで永遠の命をいただくことはできるのですが、永遠の命を味わう、真実に永遠の命に生きるということは、修練と従順無くしてありえません。
また修練と従順と共に「父母たる真人」において「ひとつにされる」ことなくして、永遠の命に生きることはありません。つまり父なる神さま、子なる神(イエス・キリスト)さま、聖霊なる神さまにあって、互いにひとつであることを知らないならば、永遠の命に生きることはできないのです。
キリスト教会にはさまざまな教派があります。たがいの違いを指摘して自分たちの教派こそ正しい信仰であるということを、強く主張する人びとがいますが、それはキリスト教会のあるべきすがたではありません。正統的な西方キリスト教会では、使徒信条を告白しますが、この使徒信条の中に「公同の教会を信ず」という言葉があります。これは公に同じ教会が存在していることを信じますということですから、自分たちの教会にも欠けがあるということを告白していることなのです。
ですから永遠の命に生きる者は、教会の垣根も越えて、さまざまな主義主張も越えて一つになる事を知っている者です。
〔聖書の個所〕
それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。
(ヨハネ17章21~23節)