カテゴリー: 新井奥邃

  • 「夫れ唯霊智能く霊を知り、唯霊明能く霊を見る。」

    「夫れ唯霊智能く霊を知り、唯霊明能く霊を見る。」

    新井奥邃、『聖言』、207

    「ただ霊的な知識によってのみよく霊を知ることができ、ただ霊的な見方によってのみよく霊を見ることができる。」

     霊を知り霊を見ることは、この世の知恵や知識、見方ではできません。例えば創世記の1章に記されている天地創造の物語における霊的な示唆、知恵を、現代の科学で解き明かそうとすることはあまり意味のないことであるとともに、不可能なことでしょう。まるでピカソの抽象的な人物像の作品を見ながら、生物学的な見地で目の位置がおかしいとか鼻の向きが矛盾しているなどと言うのとよく似ています。聖書は信仰の書物であり人生の書物なのですから、おおよそ現代科学を当てはめること自体おかしなことなのです。霊的な事がらも、ただ霊的な知恵や知識によらなければ、おかしなことになってしまいます。
     霊的な存在である神さまを知るためには、霊的な知恵や知識が必要なのですが、それはどうすれば手にすることができるでしょうか。それは「礼拝」においてのみ知ることのできる神秘ではないかと思います。聖書をいくら学んでも、神さまを礼拝することとに生きようとしないならば、霊を知り霊を見ることは出来ないのです。
     誰かを愛そうとするときもこれとよく似ています。愛を知るためには、愛そうとしない限り愛を知ることができません。愛は愛によってのみ知ることができるのです。

    〔聖書の個所〕

    神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
    (ヨハネ4章24節)

    私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
    (第1コリント4章18節)