「神は本源にして生命の生命なり。故に神に由るに非ざれば我に生命なし。我に愛ありて神を愛し、又人を愛す。此の愛如何にして我に来るや、我れ神の愛を此度に受けたればなり。我れ若し神の愛を受けずんば、一物をだも善愛するを得べからず。愛の本源我に於て断ちたればなり。生命の本は愛の存する所に於て証明せらる。」
新井奥邃、『聖言』、227
「神は生命の源でありまことの生命である。よって神によらないならば、私の内に生命はない。私に愛があって神を愛し、また人を愛する。この愛はどのようにして私に来たのだろうか。私は神の愛を受けたのである。私がもし神の愛を受けなかったならば、少しも愛することが出来ない。愛の源が私において断絶されるからである。生命の源は愛の存在する所において証明される。」
私たちは神さまから、いのちをいただき愛をいただきます。いのちと愛は、自分の中にはじめから存在しているのではありません。生きているということは生かされているということです。愛する者として招かれているということは、神さまに愛されたということがそのもといに必要なのです。神さまとの関係をたち切るならば、生きることも愛することも出来なくなってしまいます。たとえできたと見えても、それはまことの愛ではありません。
〔聖書の個所〕
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
(第1ヨハネ4章9~11節)