「謙は猶愛の如きなり。愛は猶謙の如きなり。相偕にして離るべからず。謙と愛とは猶善と美との如し。二而一也。故に吾人は宜しく謙の愛に於て相愛すべし。即ち基督の愛に於て愛するなり。」
新井奥邃、『聖言』、66
「謙遜はちょうど愛のようなものである。愛はちょうど謙遜のようなものである。この二つはお互いに離れてはいけない。謙遜と愛とはちょうど善と美のようなものである。二つにして一つである。よって私たちはまさに謙遜の愛においてお互いに愛さなければならない。すなわちキリストの愛において愛するのである。」
謙遜、へりくだりと愛とは二つにして一つです。
愛のない謙遜は、私はこれだけへりくだっているぞ、という単なる自己主張です。謙遜といいつつ、結局は自分がテーマであり自分が中心なのです。そういう生き方は、隣の人に息苦しさを与えるでしょう。
謙遜のない愛は、善意の仮面をかぶった圧力であり支配です。目に見えての暴力による圧力や支配は、それ自体とてもよくないことではありますが、分かりやすいものです。しかし善意の圧力や支配は、分かりにくい暴力です。共依存も少し似ているかもしれません。
いずれも人を生かす真実なものではありません。自分を生かし隣人を生かす真実なものは、謙遜と愛とが一つになったところに生れます。しかしこれは人間の単なる修行や努力によって生み出せるものではありません。
謙遜と愛が一つになった人格こそ、キリストです。キリストの十字架と復活です。このキリストの愛に「おいて」愛し合いましょう。「おく」ということは、つまりキリストの愛の上に自分自身を置くこと、キリストの十字架と復活の意味を学ぶこと、そこで学んだ愛によって隣人を愛することです。
〔聖書の個所〕
謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。
(エペソ4章2~3節)
それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。
(コロサイ3章12~14節)
同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。
(第1ペテロ5章5~6節)