カテゴリー: 新井奥邃

  • 「『天言は常に低し、然り而して痛然智者の聴くに堪へず』と、信なる哉。」

    「『天言は常に低し、然り而して痛然智者の聴くに堪へず』と、信なる哉。」

    新井奥邃、『聖言』、68

    「『天の言葉は常に低く語られるので、それを痛みと感じる賢い者にとっては聴くことに耐えられない。』ということは、なんと真実なことであろうか。」

     神さまの言葉、聖書の言葉は、不思議なものです。知識を積み上げればわかってくるかと言えばそうとも言えません。高慢な心で読もうとするなら全く理解できません。逆に何の知識もなくとも、謙遜に耳を傾けるならば、心に響いてくるのです。
     神さまの言葉は、低く語られています。川の水を飲もうとする鳥は頭を下げます。水が低く流れていればいるほど、頭を低くしなければなりません。つんと立っていては、のどの渇きは一向にいやされません。そのように低く語れているので、私たちもひざまずいてこうべを垂れない限り、神さまの言葉はわからないのです。
     自分こそ智者であると思っている高慢なものほど、ひざまずくことやこうべを垂れることが難しいのです。ひざまずくこと、こうべを垂れること、謙遜になることが苦痛なのです。この苦痛は、産みの苦しみのようなものです。それを経験してはじめて神さまの言葉の恵みを知ることができ、魂の渇きをいやされるという経験をします。
     人生に祝福がないということを誰かの責任にしてはいないでしょうか。謙遜になる痛みの道を歩み始めるならば、そこに祝福の道が広がります。カギは自分自身の手の中にあります。

    〔聖書の個所〕

    「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
    (マタイ5章3節)

    すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
    (マタイ11章28節)