カテゴリー: 新井奥邃

  • 「如此き少年は説教を以て教ふべからず、教育を以て正すべからず。然らば則ち為すべからざる乎。唯一の道あり。誠に終生の業に属す。隠然神に於て我が生命を頒ち、以て其力を之が良心に與ふる一事ある而已。是れ我が救主の犠牲の道にして、凡そ能く主に事ふる者の微小と雖も、各々其程度に於て日夜に尽す所なり。是れ誠に日夜に絶えざる十字架なり。而して特殊の苦艱は又特殊の時に来る。」

    「如此き少年は説教を以て教ふべからず、教育を以て正すべからず。然らば則ち為すべからざる乎。唯一の道あり。誠に終生の業に属す。隠然神に於て我が生命を頒ち、以て其力を之が良心に與ふる一事ある而已。是れ我が救主の犠牲の道にして、凡そ能く主に事ふる者の微小と雖も、各々其程度に於て日夜に尽す所なり。是れ誠に日夜に絶えざる十字架なり。而して特殊の苦艱は又特殊の時に来る。」

    新井奥邃、『聖言』、215

    「このような少年は説教をもって教えてはいけない。教育をもって正してはいけない。ではどうすればいいのか。ただ一つ道がある。それは一生涯のわざである。隠れておられる神において、自らいのちを分かち、それによってその力を、この良心に与えること、これに尽きる。これはわが救い主の犠牲の道であり、多くのより良く主に仕えようと願っている者が、たとえ小さいことであったとしても、それぞれの程度に応じて日々努力していることである。これはほんとうに日々絶えることのない十字架である。それから特殊な苦難は、また特殊な時にやって来る。」

     説教や教育によっては人はなかなか変わりません。実際にその生き方において、自らを犠牲にする道に歩むこと。それによって人間は変えられます。特別なことではなく、毎日の生活の中で、神さまのささげ、小さなことであっても、十字架を担う道を選択すること、犠牲の道を選択することによって、人間は変えられ、学び、成長していくのです。

    〔聖書の個所〕

    すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
    (マタイ11章28~30節)