「無我は独り神に由る者なり。故に独り神に由るに非ざれば無我に入る能はず。似て非なる者日に甚だし。之を病疾と謂う亦可なり。其実皆固心の我なり。其固心なる者と雖も亦或は道を開かんと欲す。然れども之に神の真道を告ぐれば、其心悲しみて悦ばず。」
新井奥邃、『聖言』、217
「無我は唯一の神に由り頼む者のことである。唯一の神に由り頼むことでないならば無我に入ることは出来ない。似ているようで全く違う者が世の中に溢れている。これを病気ということもできるであろう。その実体はみな固い心の我である。固い心を持っていたとしても道を開こうと願っている。しかしこれに神の真理の道を告げるならば、その心は悲しみ、決して喜ばない。」
「神の真道」に生きるとは、自己中心から神中心になることです。神さまに依り頼んで生きることです。
一所懸命生きようと願っている人は世の中にたくさんおられます。そうして素晴らしい働きをしておられる方もたくさんおられます。そういう人に「神の真道」を説いても必ず喜ばれるとは限りません。
徳を積み上げる生き方はすばらしいものであると思われますが、徳を積み上げる自分というものに相変わらず固執していることであるならば、この「神の真道」とは逆の生き方なのです。自分というものに固執している人に、その固執から離れなさいと語る「神の真道」を語るならば、その人は悲しむことでしょう。決して喜ばれることではありません。
しかしどんなに偉業を成し遂げたとしても、結局のところ自我がその中心にあるならば、自分も隣人も幸せにすることがないのです。逆にこの世から見てどんなに小さなことであっても、自分中心から離れて神さまを中心にして行動するならば、自分の隣人も生かすことになります。
〔聖書の個所〕
心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。
(マタイ5章3節)
イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。
(マタイ19章21~22節)