マリアはいくつであったのであろう。ヨーロッパを歩いていると、村の小さな教会堂などに置かれたマリア像は、無名の彫刻家が隣家の娘をモデルにして作ったかのように、絶世の美人でもなく、神秘的でもなく、頬を赤くした健康そうな、まだ十代かと思うようなものであったりする。実際にそうであったかもしれない。既にヨセフと婚約し、新しい生活を夢見て胸を膨らませていたかもしれない。しかし、突然の天使の訪問、挨拶、受胎の告知に驚き、とまどったであろう。だが、従順にこれを受け入れる。恐るべき運命、未婚の母になりかねない道を受け入れ、これに従う。私は神を主とし、これに仕える者でしかない。お言葉通り、神のご計画が、この肉体に起こりますように。神に選ばれた娘が自由に、大胆に決断した。服従を決断した。ただ神に思うがままに用いられる道具に過ぎなかった、というのではないのである。よく言えた、と思わずにおれない信仰の言葉である。案外に激しさを込めた言葉である。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、373頁
2020年12月18日(金)
服従を決断した、のです。自由に、大胆に決断したのです。ここに本当の自由、また本来の自由の姿があります。自由というのを、自分のわがまま放題、勝手気ままに生きること、と誤解する風潮がありますが、それは自由ではなく、自分の願望の奴隷になっているだけです。そのような人生に喜びも祝福もあるはずがありません。主イエスさまを信じて生きるということは、このお方を主人として生きるといことです。まことの羊飼いであるお方を主人とするところにこそ、まことの自由があるのです。
「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』そこで、天使は去って行った。」(ルカ1・38)