旅仲間になってくださった

神の言葉が私たちの間に宿られた。一夜の客となったというのではない。天幕を張って荒れ野の旅をする民の仲間となられたということである。天幕を張って旅する者は、城壁に囲まれた立派な町に住んでいるわけでもなく、立派な家に住むわけでもない。盗賊や野獣の襲撃に備えて見張りを立てていたであろう。しかし、あるときから、知恵と力に満ちた者が仲間となる。夜に床に入るときにもあの方がおられると、その天幕を見て安心したかもしれないし、朝目覚めれば、またその天幕を見て、平安を覚えるということであったろう。神の言葉である主イエス・キリストが私たちのなかに住まわれるということは、そのように私たちの旅仲間になってくださったということである。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、307頁

2020年10月16日(金)

「一夜の客」ではなく「旅仲間」になってくださった、それがキリストが私たちの間に宿られたということである、といいます。客という立場はサービスを受けるものですが、仲間は苦楽を共にするものです。イエスさまは苦楽を共にする仲間になってくださった、しかもイエスさまは「知恵と力に満ちた」お方です。その方が苦楽を共にする仲間になってくださったのですから、これは大安心です。

私たち自身も、信仰生活、また教会生活において「一夜の客」かそれとも「旅仲間」かといった立場の違いは、その歩み方を大きく左右するのではないか、と思います。人生において「一夜の客」であるならば、どこまでも自分がどんなサービスを受けたかということばかりに生きることになります。しかし「旅仲間」として人生を生き始めると、苦楽を共にする覚悟が生まれるでしょう。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1・14)