敵であったとき

使徒パウロは、私たちが羨むほどの霊的体験をした。・・・キリストと出会った特権を与えられたことを誇ってもよかった。ひとを羨ましがらせるように語ってもよかった。・・・しかし、パウロは、ここで、これは使徒として召された者のなかでも最も小さく、その資格がなかったのに、キリストのご訪問を受けたのだと語る。・・・私たちも「敵であったとき」(ローマの信徒への手紙第5章10節)に、キリストの愛に浴したのである。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、298頁

2020年10月7日(水)

霊的な体験を、その体験そのものを、自分の信仰の土台としてしまうならば、その信仰は、砂の上に建てた家のような危うさ、があるということだと思います。

自分は神さまに敵対する者であったにもかかわらず、神さまは救ってくださったという、パウロに習いたいと思います。自分の中には誇るものは何もないのです。

「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。」(第一コリント15・8,9)

「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」(ローマ5・10)