私は説教のなかで、「足を組んで説教を聴くことができますか」と問うたことがある。高いところからたしなめたつもりはない。叱責したつもりはない。説教は礼拝で語られる神の言葉である。礼拝全体が神の前にひざまずくこころでなされる。カトリック教会の会衆席には、ひざまずくとき膝を乗せる台がある。プロテスタントの者たちは、ひざまずくことを捨てた。そしてアメリカの教会の礼拝に出ると時に見られるように、ポケットに手を入れ、足を組んで座ったまま説教を聞いたりする悪癖を真似る者まで見ることがある。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、299頁
2020年10月8日(木)
礼拝をささげるという行為は、精神的なものであると同時に、身体全体で行うものです。精神さえしっかりしていれば、身体のかたちはどうでもよい、といったような精神主義は聖書の語る所ではありません。身体ができていないところに、精神は成り立ちません。
かとって足を組んでしまう癖は、礼拝の中でも簡単に出てしまいます。腰痛や首などがこったり痛みを覚える原因の一つに、足を組むということ、があるそうです。足を組むと身体がゆがむのだそうです。姿勢を正すことによって、身体全体の健やかさが保たれるのですね。
内面的なものが清められるために、外面的なものが整えられることは大切なことなのだと思います。
もちろん聖書は、霊と肉を分ける二元論を否定しますので、心も精神も身体も一つのものなのですから、礼拝をささげるという行為が身体全体に及ぶことは当然のことなのです。
礼拝説教中に会衆席を見ることになるのですが、私の語る説教が、礼拝者を造り上げていないなあと思わされることもしばしばで、自らの祈りの足りなさと説教者としての(あるいは牧師としての)資質のなさにいつもかっがりします。会衆には申し訳ない限りです。
「こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、」(フィリピ2・10)