私たちの罪は本質的に偽善である

主イエスが丁寧に描きつつ、その真相をあらわにして審かれるのは一貫して「偽善」である。私たちの罪は本質的に偽善である。偽りの善、外側だけの善、外側だけの信仰、ここで審きを受けているのは、律法学者、ファリサイ派、当時の裁き手たちである。最も正しく倫理的・宗教的な裁きをなし得る自覚と自負に生きた人びとである。だから自分が主イエスのまなざしにおいては、恐るべき汚れに満ちていることを知らない。この無知が偽善を完全な罪とする。キリスト者もまた、この偽善の道から遠くはないところを歩いているのである。こころしよう!

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、253頁

2020年8月26日(水)

偽善とは、このマタイ23章によると、宗教的な行為は立派になされているが、そのような宗教的な行為に隠して、「律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしている」(23・23)ということである、と語ります。

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。」(マタイ23・27-28)