この方の権威をいのちの権威として

異邦人であったに違いない百人隊長が主イエスに出会った。しかも自分のことではなく、部下のために出会った。主イエスは、このひとにイスラエルの民に見出されない信仰を見出された。それはどのような信仰であったのか。このひとは、いつも命令をする隊長であった。その命令に部下のいのちが懸かっていた。そのことに恐れを抱いていた。自分にも上官がおり、その権威にいのちを左右されることを知っていた。だからこそ、主イエスの言葉、その権威に従った。この方の権威をいのちの権威として受け入れたのである。

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、245頁

2020年8月18日(火)

主イエスさまのお言葉の権威に、従う、信頼する、ゆだねます。そのような生き方に立ちはだかるように、自分の理性、判断、思い、感情、が存在します。いっそのこと、自分の理性や判断などをなくしてしまえばいいのか、と言えば、それは自分を生きるという責任においてはふさわしくないでしょうし、また不可能です。

主イエスさまの前にへりくだり、礼拝を献げる生活のなかに、神さまご自身が、形作ってくださるのだと思います。そうして私たちは健やかな人生を歩みます。

「主よ、御足労には及びません。わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」(ルカ7・6-8)