パウロは、ガラテヤの教会の根本的な問題は、自分と同じ神の恵みを与えられているのに、それを無にしたことにあると見ている。それは、「生きているのは、わたしだ」と言い張ることである。だから、そのような自己主張を支え、正当化する律法主義に傾いた。生きているのは、もはや私ではない。これは十字架の救いに生かされている者がひとしく知る現実である。私のうちにキリストが生きておらえる。私は、このキリストのものである。だから<キリスト者>と呼ばれる。今、肉として、人間として生きる私の生き方は、このように身を献げて私のなかに生きておられる神の子キリストへの信仰を生きることでしかない。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、233頁
2020年8月6日(木)
信仰のみといったときに、それがいわゆる「私の」信仰ということでは、結局のところ私の自己主張でしかありません。私の自己主張であれば、それを支えるため、正当化するためにおのずと律法主義になるのも無理のないことです。
信仰と訳されている言葉は「真実」と訳される言葉です。一体誰の真実なのか。聖書は、神さまの真実を語ります。どのような私であったとしても、私の内にキリストが生きていてくださる、そのキリストのご真実によって、私は生かされている、それがキリスト教信仰なのだと思います。
「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。」(ガラテヤ2・19-21)