神のみわざのなかで生かされている

これから墜落しようとする教会に対して何を語るべきか、言葉を模索しながら、自分がどこに立ち、何を支えとしているかを問う。なぜ今、このような言葉を語るのか。使徒であるからでしかない。誰が使徒として立てたのか。今戦う自分の背後に誰がいてくれるのか。「人々からでもなく、人を通してでもなく」、この言葉を読むと、いつも寒風吹きすさぶ中空に立つ思いがする。人間の支えは一切ない。独善ではない。自分を使徒として認め、支えてくれる教会を無視するわけではない。しかし、それらもすべて、「イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神」のみわざのなかで生かされているだけである。今日の教会において語る説教者も、このパウロと同じところに立つ。だからこそ、戦える。自由に、勇気をもって!

加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、232頁

2020年8月5日(水)

使徒の働き1章で、イスカリオテのユダの死により11人となってしまった弟子たちは、補欠選挙を行っています。ふさわしい人物が2名推薦されるのですが、選挙によって1名を選び使徒の数を12名としています。あきらかに12という数字にこだわっています。それは新しい神の国が教会であるという信仰によるのでしょう。教会の基である使徒集団の数を12とすることによって、旧約聖書にしるされた神の国イスラエル12部族になぞらえたということでしょう。

ちなみに旧約聖書だけを読むとイスラエルという国家や民族をことさら大切に考えなければならなくなるのですが、キリスト教会は旧約聖書を新約聖書によって理解する宗教ですから、旧約聖書に登場するイスラエルは、新約聖書における教会と理解し読んでいかなければなりません。よってイスラエル国家を特別視する必要は全くありません。とくにシオニズム運動を経て第2次世界大戦後に建国された共和国である現代のイスラエル国家は、この聖書の語るイスラエルとはキリスト教信仰的には何のかかわりもありません。

さてこの12という数字にこだわった使徒集団の中にパウロはいません。パウロは後で自らを使徒と語るようになった人物です。ですから教会の中には、パウロの使徒性を疑う人たちもたくさんいたようです。しかしパウロは自らが使徒であると語り続けます。ここに12という数字にこだわる教会の姿と、それを超えた教会の姿が見えます。それぞれに聖書の強調点があるということです。

独善でもなく、教会を無視しているのでもありません。むしろパウロは教会の共同体をだれよりも大切にした人でしょう。第1コリント15章3節で、キリスト教信仰は自らも受けたものであると語っています。パウロひとりの何かではないのです。

そのパウロが、ガラテヤ1章で自らの使徒性を強調しているのです。そこにはガラテヤの教会の問題があります。律法主義に戻ってしまう教会に向かって、このように語らずにはおれなかったということでしょう。

説教を語るということの「悩み」は、語る者にしか分からないのだと思います。それも毎週同じ会衆に語り続けるということの中に立っている牧師にしか分からないことなのだと思います。つねに会衆の言動におびえています。前任者の影におびえています。その比較されることの言葉に、打ちのめされています。その恐怖の中に、しかし勇気と自由をもって語ることができるのは、自らを召してくださったお方は、神さまご自身であるとの確信によるのです。主の日ごとに講壇に立ち得るのは、ただイエスさまによって召された、という一点によるのです。

「人々からでもなく、人を通してでもなく、イエス・キリストと、キリストを死者の中から復活させた父である神とによって使徒とされたパウロ、」(ガラテヤ1・1)