第二次世界大戦のさなか、私が属した教会の熊谷政喜牧師は妻がアメリカ人であり、他の牧師よりも苦しいところに置かれていた。しかし、そのような個人的苦境を教会の集会でもらすようなことはなかった。戦争が激化する状況においても熱心に伝道していた。忘れ難いのは、このパウロの言葉を愛唱されたことである。・・・これを引用するときは、このほうが原文に近いと言って、「キリストの愛われらを挟めり」と言われた。ぎゅっと両側から挟み付ける何かの圧力を実感しながら、身を硬くして、この言葉を聞いた。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、225頁
2020年7月30日(木)
新改訳2017では「キリストの愛が私たちを捕らえているからです」。
共同訳2018では「キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです」。
口語訳では「キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである」。
文語訳では「キリストの愛われらに迫れり」。
この原文のギリシャ語は
1、一緒にしておく、閉じる。ふさいでおく。
2、押し付ける、迫る。
3、しっかり保持する。捕えておく。
4、(受)熱中する、没頭する。
5、(悪い状態が)捉える、悩ます。(受)苦しむ。
6、追いたてる、かりたてる。
7、抑える、抑制する。
(岩隈直、『ギリシャ語辞典』)
とありました。
これを見ると、6か7の訳が採用されてきたが、最近は、4の訳を採用している、ということでしょうか。
いずれにせよ、神さまの愛は、私の力ではどうすることもできないほどに、私に迫り、私を挟み、私を捕えて離さないものである。この自分ではどうすることもできない神さまに愛によって、宣教へと導かれている、ということです。愛に生きなければならないように招かれている、ということでしょう。
「なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。わたしたちはこう考えます。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人も死んだことになります。」(2コリント5・14)