見えないままに主イエスの手の感触をどのような思いで味わったか。
・・・
弟子たちもまた、この足を洗ってくださった主の手の感触を忘れなかったであろう。主イエスに倣って愛に生きるということは触るということである。
・・・
マザー・テレサが教えたのも相手に触れる愛である。触れることがないと愛は始まらないのである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、215頁
2020年7月20日(月)
オンラインでは会うということが成り立っているように見えて本当は成り立たない。そんな文章が2、3日前に送られてきたJAFメイトのなかのブレイディみかこという人の文章にもあったかっと思います。目に見えない存在である神さまが、目に見える「かたち」となってくださったイエスさまは、たびたび「触れて」くださいました。罪人に、病人に、触れてくださいました。そうして愛を語り愛を伝えてくださいました。
情報伝達の技術が発達して、まるで触れたかのように思わせる技術が多くなりました。しかしそれはほんとうは触れてはいないということをわきまえ知っていなければ、なにかとんでもない事態を招くような気がします。
「こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。」(ヨハネ9・6)
「食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。」(ヨハネ13・4,5)