「わたしの兄弟」と主が呼ばれたのはキリスト者のことだとするひともあるし、誰であろうと悩みにある小さな存在だとするひともある。いずれも真実であろう。小さな者にした愛のわざも小さい。それをした人間が忘れている。それでよい。自分と共にある小さな者に、主に対するように愛を注ぐだけである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、213頁
2020年7月18日(土)
行ないではなく信仰である、というのですが、健やかな信仰は行ないを生むものでしょう。行ないによって救われるのではありませんが、救いをいただいた者は、おのずと他者への愛に生きはじめるということでしょう。
この他者への愛という行ないは、自分がそれを行なったことを忘れてしまうほどのものであるということでしょう。もし忘れることのできないようなものであれば、このイエスさまの譬えは成り立ちません。
忘れてしまうほどに小さな愛の行ないを、神さまはお忘れにはならないということでしょう。そしてしっかりと報いてくださるということでしょう。忘れてしまうからこそ、やがての時に報いをいただけるということでしょう。もし忘れない、すなわちこの地上ですでに報いを受けているような大きなこと、評価されることであれば、天の御国での報いは小さい、あるいは無きに等しいということかもしれません。自分の愛の行ないはしっかりと忘れてしまうのが良いということですね。
「そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」(マタイ25・37-40)