この主の祝福は義憤に生きる者への祝福ではない。・・・信仰に誠実に生きることと義憤に生きることとがひとつになり、それが生き甲斐にさえなることが起こる。だがそれはファリサイ派の道を作る。・・・私たちの義の飢渇は、何よりも自分自身に向けられる。・・・正しい者がひとりもいない世界に、ただひとり義に生きられた方が、義に飢え渇きつつ生きてくださり、遂に最も深い義の飢渇が生んだ暗黒のなかに身を置かれた。「わが神、わが神・・・」。そしてそこで、遂に飢え渇きが癒される道が拓かれたのである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、190頁
2020年6月27日(土)
山上の説教の中の「義に飢え渇く人々は、幸いである・・・」のことばは、たしかに義憤に生きようとする者への祝福のように感じます。しかしそうではないことは、聖書全体を読めば明らかです。聖書に従って生きるということは、聖書全体が語っていることに照らし合わせて聖書を理解しなければ、間違ってしまうということです。また聖書全体が何を語っているかを間違いなく聞き取るためには、教会の伝統の中で読んで行かなければならないのです。聖書の書かれた目的は、イエスさまへの礼拝に生きるということですから、イエスさまへの礼拝に結びつかない読み方は、結局のところどこかに間違いが生れるのだと思います。
「義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。」(マタイ5・6)