コリントで過ごした日々、ひたすら語り続けた自分の福音の言葉については確信があった。これを聴いた人びと、教会員となった人びとは、死ぬまでそれを覚えていてくれればよい。そうすれば救いは確かである。・・・説教を語る者の努めの重さを思わせるが、これはまた説教を聴く者のこころの姿勢を正させるものである。福音を語り、聴くとき、その救いが、そのいのちがかかっている。忘れてはならない言葉を語り、聴くのである。説教を覚えておくということは、かけがえのない大切なことなのである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、183頁
2020年6月20日(土)
「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか」。福音を告げ知らせるのは、まず言葉である、ということです。そして説教者によってその言葉に違いがある、ということでしょう。たしかに説教者によって言葉に違いがあります。そのそれぞれの説教者が語った言葉、その言葉をしっかりと覚えていれば、その福音によって救われる、その言葉によって語られた福音によって救われる、というのです。
これは、音楽で言えば、ある演奏会で演奏された演奏を覚えていれば、その音楽によって明らかにされているメッセージに生きることができ、いつまでも心の中に響いている、ということでしょうか。たしかに楽譜をいくら記憶しても、音楽を記憶していることとは違うような気がします。福音の神罪救いを理解することと、説教の言葉を心に覚えるということと、少し違うような気がします。
「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。」(1コリント15・2)