母のような深い愛、それは、福音を伝えればそれでよいというのではなく、教会のために自分のいのちを与える覚悟、願いを伴う。いざとなったら教会のために死ねるというのではない。この覚悟があるかないかで日常の姿勢が異なる。説教のことばも異なる。パウロは、自分たちは、いのちを注いで神の言葉を語ると言ったのである(13節)。そして当然、教会員も、牧師がそれほどの思いで語る神の言葉をいのちを注いで聴く。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、182頁
2020年6月19日(金)
教会は、信じるものであり愛するものです。教会への愛を見失った牧師は、神さまの言葉を語ることができません。また教会への愛が失われた信徒は、牧師の語ることがを神さまのことばとして聴くことができません。
使徒信条で告白しているように、公同の教会への信仰と愛はあるのかもしれません。しかしここでいう教会への愛とは、今自分がつながっている具体的な地方教会のことです。教会は、初代教会からさまざまな傷を背負っています。その教会への愛が問われています。その教会への愛がないところに、公同の教会への愛もあるはずないということでしょう。
教会への愛。教会への信仰、信頼。それが育つことは健やかなキリスト教信仰において大切なことなのです。
「わたしたちは、キリストの使徒として権威を主張することができたのです。しかし、あなたがたの間で幼子のようになりました。ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。あなたがたはわたしたちにとって愛する者となったからです。・・・このようなわけで、わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているものです。」(1テサロニケ2・7,8,13)