教会を造る者は、皆、イエスを主とする者たち、そのような告白を霊の賜物として与えられた者たちである。竹森満佐一牧師が東京神学大学学長であったとき、ある日の礼拝で学生たちを厳しく戒めた。聖書学の世界ではごく普通のことのようであるが、「イエスが言った」というような敬語抜きの表現に慣れてはならないということであった。イエスを主と呼ぶことが基本であり、イエスを主として生きている者として聖書を読み、聖書を語るようにという勧告であった。それは情熱のこもった、一種の激しさを伴う警告であった。まして教会は、このイエスを主として生きる者たちが、その支配のもとに生きるところである。だから教会にはデモクラシー(民主主義)はないというひとまである。あるのは、クリストクラシー(キリスト支配)だけであると言うのである。そのような教会においてこそ、霊は動き、そこで洗礼を受ける者は、「イエスは主である」という告白を身をもって生きるのである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、173頁
2020年6月10日(水)
パウロは第一コリント12章より霊の賜物について語りはじめます。さまざまな賜物が与えられて教会は主の教会として生きていきます。その賜物について語るところで、最初に書いた賜物が「イエスは主である」と告白する賜物でした。イエスは主であると告白すること、すなわち信仰に生き、主イエスさまを主とすることは、神さまが与えてくださる賜物なのだ、というのです。ここが確かにされていないと、これ以降に記されている賜物がいくら豊かであったとしても、教会を生かすことにはならず、かえって混乱を招くことになるということでしょう。教会の内部に問題が起こるとすれば、おおよそこのことが確かにされていないことからくるのかもしれません。
「兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい。あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう。ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。」(1コリント12・1-3)