パウロがこころから願っていることは、これである。私たちが復活を問うたとき、私たち自身のなかにある復活の可能性を尋ねても意味はない。人間存在のなかに復活の可能性はない。ただ神の霊に根ざす可能性でしかない。生来不滅の霊魂などもない。造られた者の全存在は滅びる。その彼方に復活がある。神の故に!
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、167頁
2020年6月4日(木)
復活の仕組みを解明して、自分がそれを納得できるならば信じよう、というのは、もはや信仰ではありません。自分の知識や知恵が神となっているのです。自分の知識や知恵を神としていることは、愚かなことでしょう。
「死ななければ命を得ない」のです。自分の知恵や知識に死ななければ、いのちを得ることがないのです。自分に死んで得るいのちでなければ、本当のいのち、永遠のいのちではないのです。
信仰生活は、この永遠のいのちに生きる喜びで満ちています。この喜びを味わい知るためには、つねに自分に死ななければなりません。自分に死ぬならば、尽きることのないいのち、永遠のいのちに生きる喜びが満ちあふれるのです。
「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません。愚かな人だ。あなたが蒔くものは、死ななければ命を得ないではありませんか。」(1コリント15・35,36)