ヨセフは自分のために既に墓を用意していた。それを主イエスに献げた。自分の死体が置かれるべき場所を明け渡した。・・・私は思う。やがてヨセフも死ぬ。そのときは主イエスが出ていかれて、また空にしてくださった墓に葬られたのではないか。主が出ていかれた墓に葬られることを楽しみにしたのではないか、と。私たちが葬られる墓も、主イエスの甦りの故に、私たちを閉じ込めるところではなくなった。ヨセフの墓と私たちの墓とは、そこでひとつに重なっている。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、113頁
2020年4月14日(火)
アリマタヤのヨセフがイエスさまのご遺体を自分のために用意したまだ誰も葬られたことのない新しい墓に葬ったことは四つの福音書すべてに記載されています。少しづつその書き方に違いがあります。金持ち、身分の高い議員、神を待ち望む人、などなど。しかしヨハネの福音書にはユダヤ人を恐れて自分がキリストの弟子であることを隠していたと記されています。人間はいろいろな面をもっているものです。評価する人によってとらえ方が違ってくるものなのでしょう。
どのような評価がなされていたとしても、このヨセフの行動は重大な信仰的な結果を生み出しました。
「夕方になると、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人が来た。この人もイエスの弟子であった。この人がピラトのところに行って、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。そこでピラトは、渡すようにと命じた。ヨセフはイエスの遺体を受け取ると、きれいな亜麻布に包み、岩に掘った自分の新しい墓の中に納め、墓の入り口には大きな石を転がしておいて立ち去った。」(マタイ27・57-60)