義とは何よりも神との正しい関係である。飢え渇くのは、神との潤いに満ちた正しい関わりに生きていないからである。・・・主イエスを知ることで、初めて私たちは義に飢え渇くということが、どれほどの貧しさ、悲惨を知ることなのかがよくわかる。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、64頁
2020年2月27日(木)
義に飢え渇くという言葉から、義憤を想像したくなるのですが、どうもそうではないようです。この世界を見て、そこに不正や不義を発見して義憤にかられることがあります。そのようなことをこの義に飢え渇くということのように考えていました。しかしそうではないようです。その義憤は自分の義が満たされないことへの不満であるように思えます。それは自分が神となる道に歩み始めているということなのだと思います。それは偶像礼拝の始まりといってもよいでしょう。
義に飢え渇くということは、神さまとの関係が正しくないことにおいて飢え渇くということだ、ということです。そしてそのような飢え渇きに生きるとき、私たちは幸いに生きることができるということです。そしてそのような飢え渇きは満たされるのです。イエスさまの十字架と復活において明らかにされた神さまの愛に満たされていくのです。
「義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。」(マタイ5・6)