悪魔は人間が喜ぶ神、喜んで迎える救い主とはどういうものかを率直に語る。皆が期待するような救い主になったらどうかと誘う。・・・私たち自身が神を求め、救いを求めるとき、神を試すことになっていないか吟味することができる。・・・のどが渇いて水を求めることが既に神を試すことになった。神が神であられることを私たち自身が試す罪は、そのようにして起こるのである。
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、35頁
2020年1月30日(木)
試みる、試すということは、愛するということとは相容れないことなのだと思います。神さまを信じるということは、神さまを愛するということです。愛するということは試すことをしないと決意することです。
人間が喜んで迎える救い主というものがどういうものであるか、悪魔はよく知っています。人間の都合のよいように奇跡を起こしてくれる神、そういう存在を救い主として人間は求めるのです。ですからさまざまな奇跡を起こして人集めをする宗教は後を絶ちません。キリスト教会も例外ではないと言わざるを得ないでしょう。
人びとが願望する奇跡を起こして見せる牧師が教会を成長させるということがあるとすれば、それはもはや誘惑と闘われたこのイエスさまの教会とは言えないのだと思います。またそのような牧師像を教会から求められたとすれば、五千人の給食の奇跡のあと王としようとした群衆から身を引かれたイエスさまのように、牧師はひっそりと身を引かなければならないと自戒しています。
「次に、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて、言った。『神の子なら、飛び降りたらどうだ。「神があなたのために天使たちに命じると、/あなたの足が石に打ち当たることのないように、/天使たちは手であなたを支える」/と書いてある。』イエスは、『「あなたの神である主を試してはならない」とも書いてある』と言われた。」(マタイ)4・5-7)