祝福されて出で立つ日
教会の礼拝は、牧師の祝福の言葉で終る。・・・伝統的な教会、そして聖書の本来の理解からすれば、これは祝福を告げる言葉であり、祈りではない。祈りは聴かれることもあり、聞かれないこともあると考えられやすい。しかし、祝福は、それが告げられれば、確かにそこにある。ひとは祝福のうちにある!
加藤常昭、『み言葉の放つ光に生かされ』、8頁
2020年1月3日(金)
礼拝の終りに祝祷のない教会もあると聞きます。また祝祷が牧師がまるで神や教祖のような印象を与えるというので、会衆に語る言葉から、祝祷の文字の通りに「祈り」として「われらの上にありますように」と祈ってしまう祝祷もあると聞きます。いずれも礼拝や聖書の対する誤解が生みだしたものだということでしょう。
ローマ・カトリックの礼拝では「閉祭」の中の「派遣の祝福」として司祭が「主は皆さんとともに。」と語り、それに呼応して会衆が「また司祭とともに。」と語り、続いて司祭が「全能の神、父と子と聖霊の祝福が皆さんの上にありますように。」と語り、会衆が「アーメン。」と答えます。礼拝とはそもそも「交わり」のようで、司祭と会衆の交唱の形になっているのでしょう。私たちの礼拝での「交読」はこの名残でしょうし、祝祷も交唱の形がよいのではないかと思います。
いずれにせよ、礼拝の終りの祝祷は、牧師が祝福を祈るというよりも、祝福を告げるということなのです。どんな一週間であったとしても、祝福の言葉に始まった一週間なのです。
「アロンとその子らに言いなさい。あなたたちはイスラエルの人々を祝福して、次のように言いなさい。主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。彼らがわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、わたしは彼らを祝福するであろう。」(民数記6・23-27)