傷の手当は神にお任せし、包帯の下がどうなっているか、ちょいちょいのぞかないことです

神が私たち人間を救って下さる方法は限りなく多様でありましょうし、当人がそれを意識する度合いもじつにさまざまではないでしょうか。「そろそろ第二段階がはじまっていいころだ。これがそうだろうか?」などと考えるのは感心しません。ある者はその結果、うぬぼれ、ある者は逆に絶望することになると思うのです。

傷の手当は神にお任せし、包帯の下がどうなっているか、ちょいちょいのぞかないことです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、478-479頁

2019年12月7日(土)

私の学んだ神学校はメソジストのグループのルーツをもっていました。このメソジストというのは「几帳面屋さん」という意味で、その信仰生活からつけられたあだ名ということだそうです。きよめ派、ホーリネスなどもこの流れの中にあるそうです。このグループは清められることを強調し、それを第二の転機、と呼んだりします。イエスさまを信じて後、清められていく道にキリスト者は歩みます。その段階を考察しています。

ルイスは、このようなキリスト者が清められていく道を、いろいろあるのが実態であり、そのいろいろあるということを大切にしなければならない、と語っているようです。

「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、わたしたちをあらゆる不法から贖い出し、良い行いに熱心な民を御自分のものとして清めるためだったのです。」(テトス2・14)