イエスを私たちが自分の気に入るような方法で定義することはできません

聖書についてのファンダメンタリストの見方と、教会についてのカトリック教徒の見方に私たちは敬意を払いますし、ときとして羨ましくも思います。けれどもどちらの立場に立つにしても、警戒すべき論法があります。すなわち、「神は最善をして下さったに違いない。これは最善だ。だからこれは神がなさったことなのだ」というのがそれです。
なぜなら、私たちは人間であって、私たちにとって何が最善であるか、よくわかっていないのです。ですから、これは神がなさったことに違いないときめてかかるのは危険です。
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私たちの主イエス・キリストの教えのうちには不完全なものがあるはずはありません。しかしながら、主の教えは私たちが期待するような、あるいは願っているような体系的な、紋切り型の、誤解しようもない形で私たちに与えられていないと言っていいでしょう。
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イエスを私たちが自分の気に入るような方法で定義することはできません。そのような試みは日光を瓶に詰めこもうとするようなもので、まったく無意味です。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、411-413頁

2019年10月22日(火)

信仰を求めるとき、自分の気に入ったものを求めることがあります。また信仰を定義しようとするとき、自分の気に入るような方法で定義するということをしがちです。しかしそれこそ偶像礼拝であると聖書は語ります。
信仰とは、どこまでもゆだねることなのだと思います。

「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」(ヨハネ4・24)

「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。」(第1ヨハネ1・5)