あなたが私の足を踏んだり、私の金を盗んだりした場合、私にはそれを赦すことができるでしょう。けれども自分が足を踏まれたのでも、金を盗まれたのでもないのにこの人は、私がほかの人間の足を踏んだり、金を盗んだりしたことについて、私を赦そうというのです。・・・イエスはまさに、そうしたたわごとを口にしておられるのです。
イエスは人々にむかって、「あなたの罪は赦された」と言われました。―その行為によって紛うかたなく被害を受けた当の人間に一言の相談もなしに。・・・まるであらゆる悪しき行為に主として関わっているのが自分であるかのように、自分が最大の被害者であるかのように、語っておられます。
このような態度は、彼が真に神であり、人の犯すすべての罪において神の律法が踏みにじられ、神の愛が傷つけられたのでなかったら、まったく意味をなしません。神ならぬ人間のことばであったなら、それは歴史上最大のたわごと、最大の思いあがりと言えるでしょう。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、409-410頁
2019年10月20日(日)
私たちが罪びとであるということ。その罪は誰に対する罪であるのか。それは神さまに対する罪である、ということです。ですから神さまから罪の赦しの言葉を聞くのです。
「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた。ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。『この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。』」(マルコ2・5-7)