悪を可能にしている自由意志こそ、所有するだけの価値のある愛とか、善とか、喜びを可能にするもの

自由な意志があってこそ、悪もまた可能なのです。
神はどうして人間に自由意志をお与えになったのでしょう? それは悪を可能にしている自由意志こそ、所有するだけの価値のある愛とか、善とか、喜びを可能にするものだからなのです。機械仕掛けで動く自動人形の世界は、創造する価値などないでしょう。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、363頁

2019年9月16日(月)

柳生訳では
「悪の存在を可能ならしめたのは、まさに自由意志なのである。
それではなぜ神は人間に自由意志を与えたもうたのか。その理由はこうだ―自由意志は確かに悪を可能にするが、しかしそれはまた、持つに値する愛や喜びを可能にしてくれる唯一のものだからである。自動人形―つまり機械仕掛けのように行動する生物―の世界は、わざわざ創造するに値しないだろう。」(著作集4、89頁)

ときおり、自由意志がなければどんなに人生が楽であったか、という声が聞こえてきます。神さまは人間を自由意志を持ったものとして造っておきながら、自由意志によって罪を犯したならば罰するというのは不当だ、というのです。そういう人にかぎって、自由意志を濫用して罪に生きることに開き直っているように見えるのは、私の偏った見方でしょうか。自由意志の大切さを知る人こそ、その自由意志を濫用してしまうことに敏感に戦っておられるのではないか、と思います。

水が低い所に流れるように、人間は罪を犯します。自由意志によって罪を犯すのは、「自由」といいつつも罪人である自分の「奴隷」になっているだけです。本当の自由がそこにあるわけではありません。キリストの十字架は、そのような奴隷状態から私たちを解放するための、神さまのみわざでした。キリストへの信仰は、このような奴隷状態から解放され、神さまに向かって善に生きること、善の道を選択すること、悪の道に抗って善の道に歩むことです。そういう意味では、行いと信仰を対立的にとらえることは間違っているといわざるを得ません。真のキリスト教信仰は、善なる行いを生み出すものです。信じているといいつつ、なお悪に生きているとすれば、それは救われていないというのは言い過ぎとしても、少なくとも救いの恵みを味わっているとはいえないでしょう。

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。」(ガラテヤ5・13)