地図をもたずに航海に出るのは、安全とは言えないでしょう

神学は地図のようなものです。・・・(中略)・・・航海に出ることなくただ地図を眺め暮らしているだけでは、どこにも行きつくことができません。また地図をもたずに航海に出るのは、安全とは言えないでしょう。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、351-353頁

2019年9月7日(土)

もともとキリスト教信仰は教会の伝統と聖書の二本立てで生まれ育まれてきたのですが、一時期、聖書から逸脱した状況が生れてしまいました。それに対して聖書の語るところに戻ろうとしたあまり、教会から破門されてしまって生まれたのがプロテスタント教会です。プロテスタント教会は、逆に聖書を強調するあまり伝統を否定することになりました。伝統を失った群れは、聖書、さらには教義に固執しなければならなくなります。その結果、強烈な聖書の無誤、無謬説が生まれることになりました。

確かに聖書にも、聖書はすべて神の霊感によって書かれたものである、と語ります。しかしこれも教会の伝統が確かにされているところにおいて語られた言葉にすぎません。決して無誤、無謬ということを主張しているわけではないでしょう。聖書に厳しく記されていることであっても、現在の教会において行われていないことはたくさんあるのですから。割礼、数々の動物のいけにえ、女性の被り物、などなど。

聖書は、信仰生活、さらには人生そのものを歩むための地図のようなものです。これがなかったから安全に人生を歩むことができません。ですから大切なものです。しかし実際の航海の中で、地図に固執するあまり、刻々と変る海流を読み、暗礁を避け、目的地に向かって舵を取ることがおろそかになるならば、それも危険な航海となるのではないでしょうか。

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。」(第2テモテ3・16)