世界が始まって以来、国家における、また家庭における悲惨の主要な原因は傲慢でした。他の悪徳は、ときとして人を近づけます。・・・しかし傲慢はつねに敵意と隣り合わせです。
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神において人は、あらゆる点で自分より無限にすぐれた存在と出会います。神をそのような存在として知り―それに比べて自分をまったく取るに足らぬものと感じるのでなければ―神を知っているとは言えません。
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誰が見ても傲慢な人々が、神を信じていると自称し、自分でも信心ぶかいと思いこんでいることがあります。これはどういうことでしょう? それは、彼らが自分の頭でこしらえあげた神を拝んでいるということではないでしょうか。
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彼らは形ばかりの、しかも自分だけが思い描いているにすぎぬ、いささかの謙遜な思いを神にささげ、その一方、そのように謙遜な自分を他人と比較して、ずしりと重い自負心をそこから引き出しているのです。
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幸いなことに、私たちには自分のうちの傲慢の危険性をテストする方法があります。信仰生活を続けているうちに自分がよい人間であるかのように思いこみ、とりわけ他の誰かに比べてずっとよい人間であるかのように感じるようになったとしたら、それは神でなく、悪魔が私たちに働きかけれいるということでしょう。自分の前に神が臨在していたもうという確かな証拠は、自分のことをまったく忘れてしまうか、自分をごくちっぽけな、汚らわしいものであると感ずるかどうかです。二つの姿勢のうち、自分をまったく忘れてしまう方がいいと思います。『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、131f頁
2019年4月2日(火)
聖書の語る偶像礼拝とは、この「自分の頭でこしらえあげた神を拝んでいる」(柳生直行訳では「自分の頭ででっち上げた神」)ということです。神さまは目に見えませんから、どうしても自分の頭の中で神さまを「想像する」ということが起こってきます。この想像が「創造」になってしまうと偶像となるということでしょう。プロテスタントは、像や絵を排除しましたが、その結果より深刻な「自分でこしらえあげた神」が生まれているように思います。あんがいローマ・カトリック教会の聖像や東方教会のイコンがあったほうが、より偶像礼拝を避けることができるのかもしれません。
それにしても、自分は傲慢な人間だな、と思うことしばしばです。あるいは逆になんとみじめな人間だろうかと思う事もしばしばです。その二つは傲慢の表と裏ではないかと思う事もあります。「自分をまったく忘れてしまう」者になりたいと思います。
「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」(ルカ18・13)