進歩の可能性があるということ自体、不変の要素があるということを前提

小さなカシワの木は成長して、大きなカシワの木になります。もしもカシワの木が成長してブナの木になったとしてら、それは成長ではなく、変化でしょう。
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進歩の可能性があるということ自体、不変の要素があるということを前提としています。
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キリスト教が歴史のうちで行ってきた明確な提言には、主として公理のうちに見出されるような力があります。増大する知識によって加えられるますます複雑な意味を、それ自体何らの内的な変化を経ることなしに受けいれる力があるのです。

『影の国に別れを告げて―C.S.ルイスの一日一章』、中村妙子 訳、65ff頁

2019年2月13日(水)

成長と変化の違い。信仰は成長するものであって変化するものではない、教会は成長するものであって変化するものではない、ということでしょうか。
不変の要素と変化すべき要素との見極めはなかなか難しいものです。
キリスト教は、イエスさまという人格(神格)をお持ちのお方を、信じ、信頼している信仰ですから、そこに生まれる人格的な交わりを見失ってはならないということでしょう。

「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ13・8)