われらはあなたのものである

地上におけるいかなる時にも守ってください。さまざまの悪い時があります。しかし何が起ころうとわれらはひとりびとり心に確信を持っています。われらはあなたのものである! と。

C.ブルームハルト、『夕べの祈り』、加藤常昭 訳、155頁

〔主は助けを求める人の叫びを聞き/苦難から常に彼らを助け出される。主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる。〕(詩編34・18,19)

2018年7月8日(日)

キリスト教信仰の確信は、神が私のものとなったのではなく、私が神のものとされた、というところにあります。

私が神のものとされるためには、私の心が打ち砕かれること、が必要となります。神さまは打ち砕かれた心に近くいてくださいます。また、悔いる霊に生きること、が必要となります。神さまは悔いる霊を救ってくださいます。

キリスト教信仰に生き続けるということは、心が打ち砕かれ続ける、悔いる霊に生き続けるということです。

「心の貧しい者は幸いです。天のみ国はその人たちのものだからです」(マタイ5・3)

この「心」と訳されている言葉は、原文ギリシャ語では「霊」と訳される言葉です。霊的に貧しいものは幸いである、というのです。宗教の世界では、霊的に豊かにされるということが評価されることが多いと思います。キリスト教も例外ではありません。霊的に豊かにされる、霊的な賜物が与えられる、異言の霊、預言の霊、さまざまな霊に豊かにされる、と。そういう豊かさが祝福であるといわれることが多いでしょう。しかし聖書はその逆に、霊的に貧しい者こそ幸いなのだ、というのです。

霊的に貧しいということは、心が打ち砕かれている、悔いる霊に生き続けているということではないかと思います。