御名が崇められるように

天から軍勢をつかわし、さまざまの悲惨、憂いになやむ者を迎え入れしめて、生きる時も、死ぬ時も、われらがなしとげるべきすべてのことにおいても、御名が崇められるようにしてください。

C.ブルームハルト、『夕べの祈り』、加藤常昭 訳、94頁

〔主よ、わたしはあなたの救いを待ち望む。〕(創世記49・18)

2018年4月23日(月)

神さまの御名が崇められることとは、いったいどのようなことなのでしょうか。崇めるということは、尊ぶということであり、大切にされるということでしょうか。主の祈りでは「御名が聖とされますように」と祈るのですが、それもちょっとピンとこないのです。

私たちはおおよそ自分の名誉のために生きているところがあります。人から称賛されること、神さまから称賛されること、賢く思われること、などなど。

それらは自分の名が崇められることと言えるでしょう。

そうすると神さまの御名、イエスさまの御名が崇められるということは、自分の名が崇められないという道を選択することではないかと思います。あるいは自分を中心には考えない、ということなのかもしれません。

救いということを考えても、私たちは自分の願うとおりになることが救いであると考えています。しかし神さまが願うとおりになることこそ救いなのです。それは時折自分の願いとは違う場合もあります。しかし御名が崇められることを願うということは、そのような神さまの救いを待ち望み、また喜ぶことだと思います。