「或る人我が教門を問ふ。答へて云く、我に我が家なし、何ぞ我が門を立つべきや。我は一に唯基督に於て我を喪はんと欲する而已(のみ)。一に唯神に奉ぜんと欲する者、即ち我が授受する所なり。」
新井奥邃、『聖言』、213
「ある人が私の教えに入門したいといわれた。私が答えて言うには、私に私の一家一門はない、なぜ私の一家一門を立てなければならないのか。私はただ一つ、キリストにおいて、自分自身を失おうと願っているだけである。ただ一つ神に捧げようと願っている者、それこそ私がやり取りできることである。」
聖書の語る信仰とは、キリストの憐れみと愛に、すべてを、そして自分自身を委ねることです。自分の中にいわゆる徳を積み上げることではありません。自分の中に徳を積み上げるために神さまを利用することは、偶像礼拝であって真の信仰ではありません。
マリヤが歌ったように「卑しいはしために目を留めてくださった」(ルカ1章48節)ことへの「喜び」こそ信仰です。その喜びに生きる続けるためには、自分を正しい意味で「喪う」こと。すなわち委ねることです。
〔聖書の個所〕
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
(ガラテヤ2章20節)
それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。
(マルコ8章34~36節)
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