「抑も実界は、四界貫徹して生命を有する者なり。譬へば謙善美愛の如し、皆善なり美なり謙なり愛なり。然れども若し其一を執りて其他を相貫かざれば、生命の力なし。必ずや謙と美と善と愛と皆四通四貫して、以て有神社会の無我に達せざるなく、夫れ而る後霊体健全を成して、霊権永遠の活動す。此より以上又限りなしと雖も、然れども霊界の本部、現界より昇れば此を以て始めと為すなり。」
新井奥邃、『聖言』、211
「そもそも実世界においては、四つの領域を貫き通すことによって生命を得ることができる。たとえば健善美愛である。ことごとく善であり、美であり、謙遜であり、愛である。しかしもしそのうちの一つを手にしても、そのほかを手にしていないならば、生命の力はない。必ずや謙遜と美と善と愛との四つを貫き通してこそ、神を中心とし自分自身を中心としないところに到達することができる。そうしてのち霊的な体が健全となり、霊の力は永遠に活動する。これ以上のことはない。しかしそうはいっても霊界の本部に、この世界から昇っていくならば、これは最初の一歩となるであろう。」
今から20年ほど昔のことですが、胃がんと診断された方が手術を終え退院する直前になって、肺がんが発見されたという方のことを聞いたことがあります。大きな病院だったのですが、胃がんが発見されてからは病院は集中的に胃の部分を診ていて、そのほかの部位については診られていなかったということでした。今はそんなことはないと思いますが、一つのところにだけ集中して全体を見ないことの問題を思いました。
いくら謙遜であっても、そこに善や美、愛がなければ意味がありません。善であっても、謙遜でなければ健やかな善ではありません。美や愛も、謙遜や善に裏打ちされていなければ真実に美や愛であるとは言えないでしょう。
霊的な体、霊的な力は、謙遜、善、美、愛が一つとなっているところに存在します。
〔聖書の個所〕
たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。
(第1コリント13章1~3節)
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