「読書も亦学なり。聖書は独学を可となす。人前に携へて読む如きは不可なり。読者或は自ら以て不可と思はざるも、虚栄の気之に伴ひ易し。虚栄の人の来らざるにせよ、其気之を襲ふ。或は益する所ありと雖も其の生命を損するの大なるに比すべからず。」

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「読書も亦学なり。聖書は独学を可となす。人前に携へて読む如きは不可なり。読者或は自ら以て不可と思はざるも、虚栄の気之に伴ひ易し。虚栄の人の来らざるにせよ、其気之を襲ふ。或は益する所ありと雖も其の生命を損するの大なるに比すべからず。」

新井奥邃、『聖言』、201

「読書もまた学びである。聖書は独学をよいこととなす。人の前に携えて行き読むようなことはよくないことである。読者自身はよくないこととは思っていなくても、虚栄心がこれに伴いやすい。虚栄の人がやって来ないとしても、その心がこれを襲撃する。役に立つことがあるといえども、そのいのちを失ってしまうことは、比較できないほど大きなことである。」

 読書の秋を迎えています。本を読むことはよいことです。本を読むことは忍耐もいりますが大切なことです。本の中の本である聖書を読むことはよいことであり大切なことです。聖書には、人間の歴史、正しい道への教え、人間の罪が書かれています。聖書を読み、人間は人生を学びます。
 教会にでは備え付けの聖書もありますが、できれば自分の聖書を持つことを勧めます。心に留まった言葉に線をひくこともあるでしょう。手になじんだ自分だけの聖書には愛着もわくものです。
 まっさらの聖書を持っていることを恥ずかしく思っていた時期がありました。あまり読んでいないように見られることを恥ずかしく感じたのです。それでよく読んでいるように、手垢がついてくるのを喜んだことがありました。手垢のついた聖書を人前に出すと、よく読んでいるなあ、と人々に思っていただけるのではないかと、心ひそかに誇らしく感じたのです。今から考えると恥ずかしいことですが。
 罪から救われるために聖書を読んでいるのに、その聖書を読むことにおいても虚栄心に負けてしまっていたのです。情けないことですね。
 とにかく聖書を読むこと自体を喜びとしたいと思います。

〔聖書の個所〕

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
(第2テモテ3編16~17節)

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