「所謂大信とは篤く在天の父母を信じ、悦楽以て之に奉仕する生活是れなり。夫れ誠なる信は、只神を其心に信ずるのみに非ず、其実際生活に於て善く奉仕する者なり。之を是れ真の信と謂う。」
新井奥邃、『聖言』、194
「いわゆる大きな信仰とは、あつく天におられる父であり母である神を信じ、喜びをもってこれに奉仕する生活のことである。まことの信仰とは、ただ神を心に信じることだけではない。その実際的な生活においてよく奉仕をする者のことである。これをまことの信仰者という。」
聖書は、行いではなく信じるだけで救われる、と語ります。しかし信じるということは、頭の作業だけではありません。そのからだ全体をもって信じるということです。ですからからだをもっての行動を伴わないならば、信仰に生きているとはいえません。
礼拝をささげるということも、いまは自宅に居ながらテレビやインターネットで礼拝が可能なように言われる場合がありますが、やはりからだをもって、足を運び、礼拝堂に共に集まり、立ったり座ったりしながら、実際に賛美歌を歌い、聖書に耳を傾けることを持って礼拝する事が大切です。「ささげる」という根源的な事がらであるのに、居ながらにできるように、つまり便利に、コンビニエンスに行うということを追及するということであるならば、それは自己中心の罪ではないか、と思えるのですがいかがでしょうか。
信じるだけで救われるのでしょう、といって生活を改善しようとしないならば、それは信じているとは言えないでしょう。
信じている者は、喜びを持って奉仕する者です。奉仕するということは愛するということです。愛されることばかりに終始している罪人を、神さまは真実に愛してくださったのですが、その愛は、人間を愛されることばかりに終始する醜い生き方から解放して、愛する者にしていただく恵みのことです。
〔聖書の個所〕
また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。
(ローマ6章13節)
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