「夫れ道は固より言語文章に在らざれども、亦言語文章に寓する事なしと限らず。又道自ら発して文となり、辞となりて、訓戒する事なくんばあらず。然りと雖も人若し自ら其文を以て道を伝へんと欲すれば大いに誤る。亦書に頼りて道を得んと欲する者も誤る。」

執筆者:

カテゴリ:

「夫れ道は固より言語文章に在らざれども、亦言語文章に寓する事なしと限らず。又道自ら発して文となり、辞となりて、訓戒する事なくんばあらず。然りと雖も人若し自ら其文を以て道を伝へんと欲すれば大いに誤る。亦書に頼りて道を得んと欲する者も誤る。」

新井奥邃、『聖言』、187

「キリスト信仰の道はもとより言語文章に存在するのではないけれども、また言語文章によるのではまったくないとも限らない。キリスト信仰の道はそれ自体から出発して文となり、言葉となり、そうして訓戒することがないということはありえない(必ずある)。そうはいっても人がもし自らその文をもってキリスト信仰の道を伝えようと願うならば、大きく間違うであろう。また書物にたよってキリスト信仰の道を得ようと願う者も同じく間違ってしまう。」

 言葉は力です。聖書は、神さまを信じた者たちの命の言葉です。聖書の言葉はすべてキリストを指し示しています。聖書の言葉はキリストそのものです。ですから信仰の道を学ぼうとするならば、この言葉を学ばなければなりません。信仰を語ろうとするならば、この言葉を語らなければなりません。
 しかし言葉には弱さがあります。それは人間の弱さです。言葉そのものは力強いものですが、人間の弱さが言葉を弱いものにしてしまいます。ですから人間は言葉の強さを、その強さのままに学び、語るために、自らの生き方を常に顧みなければなりません。自らの生き方と切り離して言葉をあやつろうとするならば、大きな間違いに陥ってしまうでしょう。
 プロテスタント・キリスト教信仰では、あまり修行とか修練という言葉を好まれないのかもしれませんが、正しく修行や修練を積み上げることは大切なことです。日々の祈り、礼拝生活、聖書朗読、神さまの恵みに押し出されての愛の行動。みな修練として大切なことです。そこでこそ言葉が生きたものとなります。

〔聖書の個所〕

初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。
(創世記1章1~5節)

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
(ヨハネ1章1~5節)

わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。
(マタイ7章21節)

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA