「頓悟の心には人無きなり。故に其心に親切なし。頓悟は自尊に執着す。故に人の重荷を負はず。此れ生命を人に頒(わか)たず、故に人の血を無形に吸収す。頓悟は実体を認めず、故に霊を知らずして霊を拒む。頓悟は自尊なり。故に謙に反す。其心傲然天を慢(あなど)る。」

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「頓悟の心には人無きなり。故に其心に親切なし。頓悟は自尊に執着す。故に人の重荷を負はず。此れ生命を人に頒(わか)たず、故に人の血を無形に吸収す。頓悟は実体を認めず、故に霊を知らずして霊を拒む。頓悟は自尊なり。故に謙に反す。其心傲然天を慢(あなど)る。」

新井奥邃、『聖言』、184

「修行の段階を経ずに一挙に悟りを開こうとする者の心には、人が存在しない。ゆえにその心には親切心がない。修行の段階を経ずに一挙に悟りを開こうとする者は自分が尊ばれることにばかり執着する。ゆえに隣人の重荷を負わない。修行の段階を経ずに一挙に悟りを開こうとする者は自分の命を隣人に分け与えようとしない。ゆえに隣人の血を形に現れないところで吸収する。修行の段階を経ずに一挙に悟りを開こうとする者は実体を認めない。ゆえに霊を知らず、霊を拒否する。修行の段階を経ずに一挙に悟りを開こうとする者は自己中心そのものである。ゆえに謙遜に反する。その心はおごりたかぶり、神をあなどっている。」

 「頓悟」を「修行の段階を経ずに一挙に悟りを開くこと」としたのですが、大丈夫でしょうか。霊の人となるためには一段一段の階段を昇って行かなければなりません。日々のたゆまない御言葉と黙想によってのみその階段を上ることができます。そうでなければ非人間的な宗教に陥ってしまうでしょう。非人間的な宗教は、結局のところ霊的ではないのです。自己中心という人間的な宗教であって、神さまをないがしろにしているのです。非人間的な宗教は、非神的な宗教なのです。

〔聖書の個所〕

同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。
(第1ペテロ5章5,6節)

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