「人常に他人の目に塵垢(じんこう)あるを見て、己の目に木石の横(よこた)はるを知らず。初生の人は皆然り。其目只外に向って視る。人を見て己を見ざるは此の世の目なり。」
新井奥邃、『聖言』、174
「人間は常に他人の目の中に塵や垢があるのを見て、自分自身の目の中に木や石が横たわっていることを知らない。生まれながらの人はみなこうである。その目はもっぱら外に向って視るだけである。人を見て自分自身を見ないのは、この世の目である。」
他人の間違いや欠点見ることが人間は好きです。そうして自分自身の間違いや欠点を見ようとしません。自分自身の間違いや欠点を見たくないので、他人の間違いや欠点を見ようとするのかもしれません。
そのような「目」はこの世の目であり、生まれながらの罪人の目です。神さまに出会い神さまのことされた者はそのような目を持っていてはいけません。そのような目を捨てなければなりません。
神さまを信じて神さまのことされた者は、他人を見るだけではなく自分に目を向けます。自分の中にある罪、間違いや欠点を見ます。正直に見ます。そうしてそれらを全て神さまにお委ねし、神さまのみ心のように造りかけられることを祈ります。
他人の間違いや欠点のことを「塵垢」と書かれています。それに対して自分の間違いや欠点のことを「木石」と書かれています。客観的にはどちらも、塵垢のように見えにくいものであると同時に、木石のように重大な問題であるのだと思います。しかし、どういうわけか他人のものはどちらかというと「木石」に見えてしまいます。「木石」ではなく「塵垢」だと見ることがまず大切なのだと思います。それには信仰が必要でしょう。また逆に自分のものは「塵垢」に見えるのですが、それを「木石」と見ることもまた神さまの子としての道であると思います。
まず一歩は、どう見るかにかかっているのかもしれません。
〔聖書の個所〕
さばいてはいけません。さばかれないためです。あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。
(マタイ7章1~5節)
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