「至誠の辛苦は奮振の基礎となる。夫れ己に克つは辛苦なり。十字架を負ふて主に従うは更に艱難なり。而して艱難辛苦の事に従事するは、寔(まこと)に信者の実学なり。」

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「至誠の辛苦は奮振の基礎となる。夫れ己に克つは辛苦なり。十字架を負ふて主に従うは更に艱難なり。而して艱難辛苦の事に従事するは、寔(まこと)に信者の実学なり。」

新井奥邃、『聖言』、172

「誠に至る辛苦は奮い立つための基礎となる。自分自身を克服するのは辛苦である。十字架を負って主に従うのは、さらに艱難である。そうして艱難辛苦のことに従事することは、まことに信仰者の実際的な学びである。」

 問題のない人生を歩むことは誰しもの願いです。しかし人生には問題があります。それが現実です。聖書は、信仰を持てば問題がすべてなくなるなどということは語りません。世にあってはかん難があるとはっきりと語るのです。
 しかしこの艱難辛苦によって、人間は自分自身の我欲や自己中心という罪に打ち勝つ者に造りかえられていきます。艱難辛苦は信仰者の信仰を働かせる実際的な学びの時です。
 艱難辛苦にも二種類があります。人を生かす艱難辛苦と人を殺してしまう艱難辛苦です。あるいは同じ艱難辛苦でも、それを自分を生かすものとしてとらえるか、それとも殺してしまうものとしてとらえてしまうかの二種類であるともいえます。
 艱難辛苦を求めなければならないのかというと、そうでもありません。わざわざ求めなくても人間には既に与えられているものです。日頃の職務の中でのいろいろなことに目を凝らしてみると、そこのすでに私だけの艱難辛苦があるのではないでしょうか。それを誠実に、神さまと共に担って行くことによって、人生はより豊かなものとなります。

〔聖書の個所〕

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
(ヨハネ16章33節)

またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
(ローマ5章2~5節)

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