「吾人若し名を好み利を図るの心あらば、天福将(まさ)に其身を去らんとす。焉(いずく)んぞ生命の敗失を免(まぬ)がれざらん。故に真に福祉なる人は必ず名を好まざるなり。必ず利を嗜(たしな)まざるなり。而(し)か己(のみ)ならず、十字架の勉強に励んで其事業を興す。此の人や、此の世を救はんが為めに此の世に反して之を行ふ。故に此の世に容れられざるを当然とす。」
新井奥邃、『聖言』、163
「私たちの中に、もし名声を好み利益を計画する心があるならば、天からの祝福は間違いなくその身を去っていくであろう。どうして生命の失敗を免れることができるであろうか。よって真実に幸福である人は必ず名声を好まない。必ず利益を好まない。そればかりでなく、十字架を学ぶことに励んで、その事業を興す。この人こそこの世を救うために、この世に反してこれを行う。よってこの世に受け入れられないことを当然のこととする。」
真実に幸福に生きるためには、名声や利益を求める心をなくさなければなりません。名声や利益を求める心があれば、あるいはそのような心によってのみこの世を生きていこうとするならば、真実の幸福は去っていくでしょう。
名声と利益の反対である十字架。キリストの十字架を学び、また自分自身に与えられた十字架を担って行くところに、真実の幸福の道が開かれます。そのような生き方は時折この世界の価値や基準からすれば正反対の生き方となるでしょう。人びとから反対されることもあるでしょう。しかし反対されることは当然のことなのです。驚き怪しむことはありません。胸を張って十字架の道を歩みましょう。真の幸福がそこにあります。
〔聖書の個所〕
それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。自分のいのちを買い戻すために、人はいったい何を差し出すことができるでしょう。
(マルコ8章34~37節)
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