「嗚呼我自身天下の罪人なり。然るに神猶且つ此の如く生息を賜はる。故に我は宜しく感謝して広天下の為に務むべきのみ。我敢て人を罪とするを為さざるなり。又敢て人を赦すの言を用いざるなり。」
新井奥邃、『聖言』、57
「ああ、私こそこの世界の中にあって最大の罪人である。最大の罪びとであるにも関わらず神さまは、このように命を与え生かしていてくださる。よって私はただ感謝して広いこの世界にために力を尽くしてなすべきことを行うのみである。私は決して人を罪人と決めつけることはしないでおこう。また決して人を赦すなどとという言葉は用いないでおこう。」
自分が罪びとであることを知ることは大切なことです。そうでなければ困ったことが起こった時に、常に被害者意識にとらえられ、誰かをさばき、誰かを罵って生きることになります。それは豊かな生き方ではありません。
また自分が罪びとであることを知ることにとどまらず、自分が罪びとの頭であること、つまり誰よりも一番の罪びとであると知ることは、また大切なことです。自分を罪人と、いわゆる謙遜で言うことはあるかもしれませんが、それは不十分なのです。私も悪いかもしれないが、あの人のほうがずっと悪い、とか思っているうちは、生き方がやはり難しくなるのです。
最大の罪びとであるにもかかわらず、こうして生きている。それはまさに神さまのあわれみ以外の何ものでもない、と知ることこそ大切なことです。今生きているということの土台に神さまのあわれみがあるということを知るならば、ただ与えられた職務に精出し、誰かを罪びととして生きることから解放された人生に歩む者となるでしょう。
誰かを罪びとと決めつけない、つまり自分が裁判官の位置に立たないということは、誰かに「わたしはあなたを赦します」などということからも自由になるということです。赦すとか赦さないということも、裁判官の仕事なのですから。そのようなことからも解放されることは、本当によりよく自分の人生を生きる秘訣であると思います。
〔聖書の個所〕
「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。
(第1テモテ1章15~16節)
律法を定め、さばきを行なう方は、ただひとりであり、その方は救うことも滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたは、いったい何者ですか。
(ヤコブ4章12節)
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