〔弟子の召命〕
2015年1月22日(木)
・・・レビは、イエスとすでにイエスに聞き従おうと考えていた彼の弟子たちを、まず自分の家での大きな晩餐に招待した、だがそこには彼の職業仲間多数も、「多くの徴税人と罪人」たちもやって来ていて、イエスと共にテーブルについたという。
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「正しい人」とは、彼ら自身の判断において、また、世の中にはイエスの仲裁がなくても困らない他の正しい人びとの判断においても、正しい場所にいる、つまり他の人びとと異なって神の側に立っている人びとです。・・・「徴税人と罪人」は明らかにそれには属さず、その党派に戦を挑まれている不信心な多数派に属しています。
今やイエスはこの戦場へやってこられる・・・
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イエスは―まるでイエスによって召された人に従うかのように、この者がイエスに従う代わりに!―レビの招待を受け入れ、一緒に彼の家へと出かけ、そこで俗物どものいわくつきの怪しげな連中と共にテーブルにおつきになる。それがあのレビを神の側に呼びよせることでしょうか。―「君が誰と付き合っているかを言ってごらん、そうすれば君がどういう人かを言ってあげよう!」イエスはそこで誰と付き合っているのでしょう。こんなことをするのは正しい人でしょうか。福音書記者たちの驚くべき答えは、「そうだ、『この』義とされた人と正義へと呼びかける方、人間イエスは必要にかられてまさにそれをなさる!」。
イエスはまさにあのすでに正しい人たちの陣営にはお立ちにならない。
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この方イエスは、今や「徴税人と罪人」に相対するのではなく、彼らの「ため」に、この世の子らの「ために」、不信心な人びとを全部一まとめに合わせて、神の側にお立ちになります。カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、59ff。
神さまは世の終りまで私と共にいてくださいます。
レビを招き、レビの正体を受け入れ、徴税人や罪人と食事を共にされたイエスさまは、罪人である私のところにも来てくださり、共に歩んでくださいます。
この恵みを知るためには、自分自身が罪人であることを知らなければなりません。
自分が罪人であり続けているということを知り続けなければなりません。
ひとたび「正しい人」の側に身を置くならば、その「正しい人」の側に身を置く安心を得るならば、イエスさまのおられるところとは違うところに身を置いていることになります。そこには真の平安はありません。
人から嫌われ、後ろ指と刺され、ののしられ、非難される者の側に、きょうもイエスさまは立っていてくださいます。
(祈り)
神さま、罪人である私のところにも来てくださったことを感謝します。どうか自らが罪人であることを忘れることがないように守ってください。
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