「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」。 ルカによる福音書4章9節

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〔イエスの誘惑〕

2015年1月20日(火)

第三の試み(ルカ福音書による)はすべての中で最も驚嘆すべきものです。
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イエスがこの最後の最高の誘惑に屈したら、神自身を試みるという最高の冒涜を犯したことになるでしょう。
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アダムの血統の人間が極めてうまく成功するならば、その時まさに自己賛美の最も完全な形としてこのような「宗教的」自己献身になるでしょう。ですが、このような自己賛美においては、神は、実際極めて完全に人間奉仕におかれ、それと共に完璧な神への告白の見せかけのもとで、(私たちの)ともなる方(イエス)ともども完璧なまでに否認されるのです。
イエスがそうなさらず、まさに極めて宗教的な喜びと満足感を罪の最高の形として拒絶なさったことで、イエスはヨハネの洗礼に忠実であり続け、神の御心に適う方であり続け、罪なき身であり続け、従順であり続け、私たちすべてに代わって正義を行われました。それはイエスおん自ら私たちすべての正当性の証明に、そしてかくして世界の神との和解のために起こらなければならないことでした。これこそ必要なものなのです。

カール・バルト、『カール・バルト一日一章』
小塩節、小鎚千代・訳、日本キリスト教団出版局、2007年9月25日発行、56f。

聖なる都エルサレムの神殿の、その高い頂から飛び降りたら、人間ならば命を失うことになるでしょう。しかし神の子であるイエスさまならば、天の御使いが万全の守りをもって、その命を救うでしょう。あるいは神ご自身であるイエスさまならば、「死ぬ」などということにはならないでしょう。
そうして、宗教家に期待されるとおりに超人的な姿を示すならば、多くの信者を集めることもできたかもしれません。

しかしイエスさまはそうなさらなかったのです。サタンが言うように神殿の頂から飛び降りることは、神さまを試みることであり、神さまを冒涜することであったからです。試すということほど、愛とかけ離れたことはありません。

宗教界に期待される超人的な姿を示すことは、宗教的な喜びと満足感を満たすことでしょう。しかしそれこそ人間の罪の最高の形なのです。
この世の宗教の中には、超人的な姿を求め宗教的な喜びと満足感を満たすものが、いかに多いことでしょう。またそのような宗教を求める人間がいかに多いことでしょう。キリスト教会にもそのような満足感を求めてやって来る人がいます。

しかしキリストの教会は、キリストの十字架をこの世に示します。
この世が神さまと和解するためにどうしても必要なことは、このキリストの十字架だったのです。これこそ必要なものなのです。

(祈り)
神さま、神さまへの従順の道を、そして十字架の道を歩まれた主イエスさま、感謝します。どうか宗教的な喜びと満足感を満たす誘惑に勝たせてください。

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